秋葉原通り魔事件に付随する色々な見方

凄惨な事件でした。

どう捉えて良いのか分からない。というか、色んな見方があって、無論まだ情報が足りないので、どれも消化不良なままだ。ネットの意見とか、IRCの意見とかを読んで、少しずつ考えている。個人的にはやはり「秋葉原」である点が気になる。やはり自分にとって、大きな意味を持つ場所だから。

まずは、不運にも犠牲となり、亡くなられた方々のご冥福と、怪我をされた方々の一日も早いご快復をお祈りします。

なぜ、アキバ?


犯人の動機と、特に「アキバ」の関連が謎だ。今のところ、大きく二つの意見を聞いた。後者はマスコミ関係者の意見の又聞きだが、一定の説得力があるように思う。

  • 犯人は典型的ラスト・ロスジェネ、格差社会の犠牲者。アキバ文化を破壊することに何らかの意味がある。もしかしたらアキバの「住民」。
  • 犯人にとって、アキバは単に「目立ちたいから」選んだだけの、標的。犯人は、根本的には愉快犯。

愉快犯だからと言って、社会的風潮と無関係ということは無いだろう。また、いかなる背景があろうとも犯行計画後は愉快犯的側面を持たざるを得ない(何しろ一般大衆への無差別殺人だ。怨恨でない以上、感情の発散、自らの慰撫以上の意味はない)。二つの意見に割れているというより、二つの見方がある、と考えるべきか。
ただ、アキバに対する意味づけは、両者で決定的に異なってくる。暴力団員を名乗った理由も、この二つで大きく違ってくる気がする。個人的にはやはり「なぜ、アキバ?」に、とても興味がある。犯人の予告が2chではなく、携帯サイトにあった点も興味深い。

過去の通り魔事件との関連

附属池田小事件との関連は、恐らくマスコミが大きく取り上げるだろうから、現時点であまり考えようとは思わない。アキバ文化という線では、実は今までの通り魔事件はあまり関連性は無かった。酒鬼薔薇少年はほぼ無関係だった。奈良の女児殺害事件は、犯人はペドフィリアではあったが、アキバ系という印象はない。一方、それらに対して荒川沖事件の犯人はかなり「ゲームやアニメのせい」解釈が幅を利かせた。また、サバイバルナイフを使い、一気に殺傷して暴れ回った点は似ている。しかし、その点は附属池田小事件の宅間被告が遙かに上を行く。だが、宅間被告はアキバ系とは似ても似つかず、5回も結婚したモテ系ですらある。一方、トラックを使った点は仙台アーケード事件を思い起こさせる。

今までの事件におけるアキバ系と結びつける解釈は、あくまで宮崎勤を念頭に置いたものだった。変態が変態ゆえの事件を起こす。だが、今回の事件には一切の「変態性」を感じない。少なくとも、事件一日目には、幼女もアニメもゲームも現れなかった。現れたのは、渋滞の中、2tトラックを現場まで運転してくる根性と計画性、サバイバルナイフ一本で17人もを刺し、かなり迅速な応急処置にもかかわらず、その内7人もを死に至らしめた、圧倒的な攻撃性だった(附属池田小事件では、刺された児童は全て20分以上放置された末の失血死である)。これから変わってくるのだろうか? 被害者が、報道通りの身分であれば、娯楽と言えばネットとゲームとアニメしかない状況はあり得るが……

テロリズム的側面

事件の様態と、その場にいた人々に与えた効果は、ほとんどテロと変わらなかった。日常にもたらされた突然の非日常であり、理屈抜きの恐怖をまき散らすものだった。
しかし、犯人がどういう人物にせよ、何らかの目的を持ったテロリズムを行いたかったわけではなく、ほとんど単なる感情の発散として行った行為であろうから、行為者からすればテロではない。
不思議な状況だ。

(マス・ネット)メディアが事件、および初期の事件解釈に与えた影響

2chでの解釈は、「ロスジェネの反逆」という方向に一方的にまとめられつつある。現在の2ch文化がそこに根ざしていることが大きく、ネットというメディアを通じて自分を強化し、あらゆる情報をそこに組み込もうとしている証だろう。私も、ニュースをぱっと見ただけでは、思わずそう解釈せざるを得ない。

一方で、先述の報道関係者のように「愉快犯じゃね?」という、極めて冷静な見方もありえる。全く否定できない。自分がこうした見方を見失っていたことが、恥ずかしい。

また、無論決して褒められたことではないが「アキバなんてキモオタの巣窟だろ。死ねばいい」的な意見が散見されるのも事実だ。頭の緩い若年層の価値観に、メディアがどのような影響を与えるかの好例だ。

一方で切込隊長では 秋葉原でキチガイ大暴れ: やまもといちろうBLOG(ブログ) と、宮崎勤の延長の解釈が述べられている。クラシックだが、やはり重要な視点ではあろうか。

(マス・ネット)メディアによる事件の受け止められ方

少し飛躍するが、個人的には、マスメディアによって、

「アキバ」=「ゲームやアニメやネットで引きこもる内向的人間のすくつ」=「変態犯罪者のすくつ」

という図式にさらに、

格差社会の犠牲者」=「不満を抱えたワーキングプアニート」=「引きこもり」

という図式が合体するのが怖い。どんなスラムだそれは。
言い換えると、「生活に不満を抱えるワーキングプアニートは、サブカル系文化に触れることで秋葉原通り魔事件のような恐ろしい犯罪を引き起こす。社会構造が良くなることはしばらく無いから、まずは文化に対する規制と管理を行うべきである。つまり、ゲームやアニメ、アキバにおける自由行動を規制し、大須日本橋も浄化する。また、不適切なデータに接触した人間を追跡管理し、事件の際の証拠として取り扱うべきである」というような。
つまり、文化という単独の単位では根拠レス故になかなか追求できなかったことに対して、根拠を与えてしまうのではないかと。

こういう意味では、いっそ、愉快犯であってくれた方がまだ有り難い。不謹慎な言い方で申し訳ない。

また、ネットメディアが、「俺たちは不満を抱えているんだ。秋葉原通り魔事件は当然起こるべくして起こったんだ」というようなメッセージを主張しすぎることも怖い。それを信じる人が増えれば、本当にまた模倣事件が起きてしまう。

お約束で、たまたま同姓同名で静岡県「出身」の方のmixiが炎上している。ひどいもんだ。

マスメディアとネットメディアの違いの在り方

マスメディアとネットメディアの棲み分けも気になる。
ネットメディアは、今回の事件をいかに報道すべきなのか? というか、「報道」すべきなのか?

海外の事件においては、民間の「報告」や「速報」がblogやFlickr等で毎日行われ、それが一定のリテラシを醸成することが何度か観察されているように思う。それらの報告はいずれも当事者の視点であり、彼らなりの洞察を加えたものだった。のではないか。ちょっと検証不足だ。確か、湾岸戦争や9.11では、かなりのレポートが上がっていたはずだ。9.11では私も色々とblogを追っかけた記憶がある。
一方で、今回の事件についてはそこまでの当事者性を感じさせるネット記事を見かけることは無かった。彼らは一様に「居合わせた観客」であった。自分で自分をショーの観客足るようにすべく、事件との間に報道プロセスを差し挟む、そのような行動にも思えた。

http://pastorale.jpn.org/2008-06-08-1.html

やれやれ。

これは、事件の性質によるものなのか? 日本文化によるものなのか? あるいは、単に一過性の状況に過ぎないのか、もしくはどこでも起きる必然なのか?

また、速報性において、マスメディアとネットメディアは何をすべきなのか? 今回の件でも、やはり2chは「まとめ」として一定の役には立っていたが、マスコミのサイトを見ることでも現状の把握はできた。というより、2chも9割方マスコミソースで動いていた。ありがちな「知り合いによる投稿疑惑」も無かった。

少なくとも現段階では、マスメディアに対するネットメディアの優越性を殆ど感じていない。これから事件の解釈が行われていく上で、マスコミとの差が鮮明となっていくのだろう。

格差社会。壊す以外の選択は無かったのか?

「働いたら負け」という甘えと、背景にある社会矛盾 - 雑種路線でいこう

いま決定的に足りていないのは希望だ。ロスジェネ世代で苦労している連中だって、たぶん絶対的な労働条件や生活水準でいったら高度成長期のモーレツ社員よりずっと恵まれている。「働いたら負け」とかいってる時点で、かなりヌルい状況にある。じゃあ高度成長期のモーレツ社員にあって「働いたら負け」と信じるニートに何が足りないかというと、たぶん希望だ。彼らは期待を裏切られ、そして将来に期待を持てないという点で、二重に希望を失っている。そして月9のドラマに出てくるキラキラしたライフスタイルをみて臍を噛み「俺たちは割を食った」という思いを新たにするのだろう。

に、かなり同意する。私は世代的にはロスジェネにあって、それでも上層10%には入る滅茶苦茶恵まれた環境にあるけれど、それでも父親の成した財産の半分も築けないだろうし、頂ける年金も限られたものになるだろう。かと言って、かつての価値観に共感は抱けない。

そして、もし仮に実際犯人が、格差社会の犠牲者としての自分を認識しながら犯行に及んだのならば、それは全く悲しい出来事だ。第一に責められるべきは犯人とは言え、もはやこの事件の「真の犯人」を追求する行為にすら意味はなく、我々はこの怒りのぶつけ所を失い、ただひたすら「悲しいね」としか言うことしかできない。

人口構成を考えるとロスジェネ世代が多数派を占めるとは考え難いし、いくら他責の議論を積み上げたところで詮無いのではないか。もちろん「何故勉強しなかったのか」という自己責任の論法でロスジェネの過去を問うことも同じように詮無い。働こうと思える希望をどう取り戻すかの方策、身を粉にして働いている人々が能力蓄積を通じて報われるための仕組みを検討することが当面は現実的ではないか。

勝間和代が言うように、徹底的な雇用流動化によって生産効率を上げれば、ワークライフバランスも回復するし、低所得者層への保障と効率的な富の再分配も可能になってくるのだろうか。少なくとも、今の中途半端な格差固定化メカニズムは、持続的な生産効率向上という観点からしても阻害要因だ。しかし、「そうするしかない」という主張は分からないでもないが、「そうなる」とは誰にも言えない。やれやれ。

アキバという街に起こりつつあることと、事件の影響

電器オタが静かに暮らす良い町
 ↓
アニメ・エロゲも共生しだすが、やっぱり静かなオタ街
 ↓
電車男 すべての元凶
 ↓
マスゴミがこぞって秋葉原を変な持ち上げ方する
動物園で動物みてわーきゃーいうかのような
 ↓
オタク=アキバ、オタク=アキバ、と糞マスゴミが連呼
 ↓
全国から馬鹿が集まってくる
 ↓
馬鹿が調子に乗って、歩行者天国で集団で踊り始めたりする。
んで草動画で「集団でハルヒオフしてみたwwww」とか
 ↓
マスゴミの影響でどんどん馬鹿が集まる。素人ストリッパーやエアガン乱射餓鬼など
 ↓
無法地帯に      【←いまここ!】
 ↓
一線を越え、社会は弾圧に回る
 ↓
衰退
 ↓
破滅

from: http://abnormal.sakura.ne.jp/entry/log_1664.php

orz

電気街+PCパーツ+アニメ・エロゲな頃が一番住みやすかったな……。ほんの数年だったけど。日産商会でベアリングを買い、ぷらっとほーむでOpenBlockSを眺め、ラオックスAsoBitCityで以下略。残念ながら交通博物館には行かずじまいでした。

ただ、この時系列には、粛々と進行していた秋葉原再開発計画が入っていない。再開発の影響(特にヨドバシの開店とTXの開通)は大きく、数多くの観光客・買い物客を集め、秋葉原の観光街化に成功した大きな要因と思う。しかし一方で再開発計画は、当初私が畏れていたような壊滅的影響をアキバ文化に与えることなく、かなり穏当にアキバ文化と共存していた。それは多分、サブカルのメジャー化とも関連しているだろうけど。中央通りのエロゲショップが多少自粛し、警官が多少増えたとしても、アキバ文化に対するある種の尊重があった。

「馬鹿が集まる」ことの善し悪しを、どう判断したらいいのだろう。いずれにせよ、それが持続的な状態となり得ることなど無かったのだろうか。

アキバがネット/リアル社会に対して象徴するもの

アキバは何の象徴なのだろう?
動ポモ化した嗜好や、一部のネット住民の強烈な下流意識に対して、アキバはどういう存在だったのか? そうしたモザイク状態を、どこまで反映できていたのか? どこまで象徴化できていたのか。

なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流 - 絶倫ファクトリー

渋谷や新宿でなく、アキバなのは何故か。犯人にとってアキバとは。犯人が描く「一般社会が持つアキバ像」「アキバ住人が持つアキバ像」とは?

アキバの変質に対して、個人的には、電車男の影響はそれほど感じていない。あの直後に、多少一般人が増えたかも知れないが、そんなのは一時的ブームだ。今、アキバのヨドバシや中央通りを歩いている人々は、電車男を覚えているだろうか? アキバの街を歩いて、電車男の影を見いだすことはできるか? それよりも、私がネットとアキバの最大の乖離を感じたのは、メイドカフェブームだ。電車男は、街並みに対して何ら変更を加えなかった。しかし、中期以降のメイドカフェブームは、ネットの一部のメイド好き属性に対する象徴化を明らかに超えた、ある種の風俗街化をアキバにもたらした。街に溢れるメイドとカメコには、少なくとも個人的には、慣れることができていない。

あの時点で、上に挙げたエントリのように「スペクタクル志向空間」への遷移が始まったように思う。街を記号化し、街そのものが発するメッセージで人を楽しませるようになってしまった。確かにそれは分かりやすい「標的」であったろうと思う。そうした「空間再構築」という作業において、再開発事業が果たした役割も大きかっただろう。

blog、BBS等、文字ベースネットコミュニケーションの特性

昔に書いたちょっと関連する記事:つれづれない - 受身な力学 - behind the counter

最後に少し別の話題。
少し前にblogや2chで、人はなぜ怒っているのか、という話題が流行っていた。ただし、その頃は忙しくて、関連記事を全く読んでいない。

実験ベースでは、フェイス・トゥ・フェイスなコミュニケーションに対して、文字ベースのコミュニケーションが如何に

  • 誤解を起こしやすく
  • 話題に対して無知でも平気で発言をしてしまいやすく
  • 空気を読まずに割り込みやすく
  • フレーミングを起こしやすく
  • 議論に対するコミットメントを減らし
  • 集団の問題解決能力を下げるか

ということが何度も検証されている。そのメカニズムにきちんと踏み込んだ話は、私は知らないが、単純に言って情報量が減っていることが最大の問題であることは疑いない。相手の姿形、プロファイル、声、声の調子、表情、仕草、エトセトラ。文字で表現される以上のことが、それらによって伝えられている。相手がどれだけ本気で話しているのか、どういう意図があるのか。人が人の話を聞くとき、無意識にそれらの情報を取得し、言葉として得た情報に対する属性付けを行っているはずだ。そうした情報が欠落していれば、通常のコミュニケーションが成り立たないのは当たり前だ。

一方で、こうした情報が欠落した場合、人間は無意識にその「補完」を行う。コミュニケーション全般であればまだ良い。誤解を防ぐために長文を書いたり、無知な発言を叩いて追い出し、空気を読むために日記コミュに移行し、フレーミングに対するスルー力リテラシ化し、コミットメントを増やすためにホッテントリなタイトルを付けたり、ニコ動のように消費過程を共有することができる。だが、情報を「読む」ステップに限定して言えば、全ては読者一人の「脳内補完」に委ねられる。推論と言ってもいい。しかも、それらの補完は無意識に行われ、そう簡単に自分の意志で省略することはできない。
要するに疲れるのである。
しかも、RSSリーダを使ったり、2chブラウザを使ったりすると、現実にはあり得ない速度で次々と情報を取り入れてしまう。その全ての情報に対して、そうした補完を行っていれば、絶対確実に疲れる。

基本的に情報量が足りないところに、そうした認知疲れ症状で視野が狭まっていれば、必然的に怒りが発生する。怒って当然だ。

これって、ネット脳じゃね?

さっき自分で挙げておいて何だけど、ワーキングプアニートの娯楽が、ネットや携帯しかないのだったら、それってまずいんじゃね…?

ということを考えたりした。どうなんだろう。