リフレイン

先日の飲みで真綾の話になったためか、"The Garden of Everything"が頭の中で無限ループ。おかげで、むやみに悲しくてたまらない(笑)
宏方さんも言っていた(No.70)[nifty.com]ように、モーツァルトについて言われた「疾走する悲しみ[1134.com]」という言葉が、菅野よう子にもよく似合う(この言葉自体は単なる誤訳[infoseek.livedoor.net]であるとする人もいるようだ)。世界の果てから透き通った青空を見上げるような悲しみ、路地裏で最後の知人の訃報を聞く悲しみだ。心の負荷をどこにも押しやれない時、人間の心理はシンプルに書き換わる。もともと、感情は生物の心理的なスコープを狭めるために存在する。痛みは、その要因から遠ざかることだけを考えるように、喜びは、その要因を出来るだけ持続させることだけを考えるように、内側から心を書き換える。
ずっと昔から、「苦しみ」と「悲しみ」の差異について考えている。同じように、負の感情として扱われるけれど、悲しみにはそれだけではない何か、傷を癒す力がある。苦しみは、今そこにある事態に対して感じる負の感情だ。悲しみは、過ぎ去ってしまった、取り返しの付かない、誰か、何かに転嫁することもできない苦しみを、自分一人で癒すための感情なのだろうか。苦しみは共有できないが、悲しみは共有の可能性があるようにも思う。あるいは単にそう信じているだけなのかも知れないけれど。それを確かめさせないことで、笑っていけるだろうか。
そしてまた、いつか聞いたメロディに帰っていく。