今月読んだ本

技術書以外だとほとんど何もない。娯楽本を一冊も読んでない。萌えCPU本でも買えば良かった。ていうか、あれを職場で見かけたときにはどうしようかと思った。
神道関係の本は、いまいちなのが多くて紹介できない。むつかしいネ! とりあえず伊勢と出雲の両方を調べてみることから始める。こういうのが古代神道で、明治からの伊勢中心のが復古神道

ブラボー。マンセー。超絶的に面白い入門書。絶対どこかで騙されてると思いつつも、ついつい読んでしまう。
思想の核であるところの「考え方」の変遷を、三つの軸から(と言うのは私が勝手に読後印象から決めつけているのだけど)捉えていく。まず、(書かれた時点でのホットトピックであった)ポストモダニズムと、日本の特殊な思想事情へのコメント、さらに、ポストモダニズムが行き着いた「絶望」について。ここら辺は多分、誰でも肌で感じていることだ。我々は、社会の要請通りの役割を果たすか、あるいは狂気に陥る以外に生きる道を残されていない。自分探しも冒険も、全ては現代社会の予定調和に組み込まれている。そんなことは誰でも知っている。昔の人はそれを真剣に議論したのだろう。だが、確かに現代の我々も、そこから抜け出せているとは到底言えず、例によって記号を消費する云々の世界観に捕らわれまくっている。
二つ目は、少し遡ってデカルトから始まる近代思想について。もちろん、この辺はべらぼうに端折られている(デカルト、カント、ヘーゲルマルクスを三十数ページで紹介できるはずがない)のだが、後々の展開への伏線としての認識問題(現象学)と、人倫、類的本質などといった「人間の正しい在り方」が社会とどういう関係にあるかという思考の変遷が語られる。これが第一の軸に繋がり、「絶望」がシステマティックにもたらされていることが明かされる。
そこでアンチテーゼですよ。
第三の軸は、これらの流れに直交する軸だ。『死に至る病』のキルケゴールが、個人としての考え方を無視するなと文句を言う。ニーチェが現れ、そもそも負け組から始まった哲学が勝ち組になるはずがないと啖呵を切る。うむ、その通りだ。もちろん、理想の社会など実現しないに決まっている、というところから話を始めるべきなのだ。負けを認めない粘着は困るよね。
そこで現象学の話が復活し、まず「認識」と「共通の理解」の間の微妙な関係が語られる(これもまた伏線だ)。最後に、巨人ハイデガーが現れ、現象学の達成点としての<実存>の話に入る。人間が生きる日常生活そのものが、人間であり同時に世界であるということで、はっきり言えばAIRのラストの「過酷な日常を」は、コレである*1。死を忘れるための日常ではなく、死を超えるための日常を生きなければならない。
「認識」と「共通の理解」の間の特殊なエロス性が第一・第二の軸を裏で支えていた力学であるとほのめかすこの先の話も大変面白いのだけど、私が書くとかなり恥ずかしい感じなので省略しておく。とにかく面白いので、興味がある人は是非。あと、id:satosは事あるごとに「大きな物語の崩壊」とか恥ずかしいこと言ってないで、これを読むべし(笑)

実は「現代思想の冒険」よりも、こっちを先に読んだ。これもべらぼうに面白く、分かりやすい。余りに分かりやすいので、絶対騙されていると思う(苦笑)。ポストモダンの旗頭であった構造主義についての入門書。ポスト構造主義の批判にかかわらず、構造主義が持つ本質的な正しさは変わらない。というよりソシュールの一般言語学の正しさが変わらないと言うべきかも知れないが。


実は、この本は本当は紹介したくないのだ。どこかでネタ本にしたいから。いや、構造主義を作品に持ち込むつもりは全くない。ただ、この本は当然ながらレヴィ=ストロースについての本であり、当然ながら「親族の基本構造」に言及する本であり、当然ながらインセスト・タブー(近親相姦の禁止)の構造がいかにして生まれたかをばっちり書いてある。劣性遺伝云々は本質的に後付けであることが暴露されるのだ。
……な? 興味あるだろ? >妹萌えの人々
これ読んだ後にシスプリとかやると凄いよ、きっと。「こいつはトレード可能、こいつは不可……」とか、背徳感で膝が震えるね、きっと。

異界と日本人, 小松和彦, 角川選書356, ISBN:4047033561
古今妖怪談義みたいなノリで進むのだが、江戸時代に入って急激に事情が変化した前後を比較すると大変面白い。
古代日本の妖怪説話においては、妖怪とは人々が日々抱く恐怖の具現化であり、従って討伐されるべきものであり、ストーリーは討伐者側である宗教の権威を保証するものであり、ひいては権力説話であった。権力は異界を必要とし、異界は文字通り「外から」やってくる必要があった。日常生活の外部に構築された別世界が背景としてあるのは、それが必然だからである。「民衆のために偉い人が、恐ろしい妖怪を退治してくれた」という図式であるためには。
ところが、中世以降、特に江戸時代に入ると、(おそらくは)権力と宗教の分離が顕著になってきたためか、権力は強力な宗教を必要とせず、従って宗教は妖怪説話を必要としなくなった。するとどうなるか。まず、妖怪のパワーが目に見えて落ちてくる。怪力の鬼どもの代わりに、つくも神が現れる。龍宮の代わりにお祭り騒ぎの百鬼夜行が現れる。哀しさを漂わせた古代の異界譚とは異なり、奴らはバックボーンをほとんど持っていない。しまいに絵師達は、代わる代わる新キャラを捻り出しては、ろくな設定もせずに描き散らすようになった。
キャラ萌えによる大量消費が始まったのである。
最後に彼らは「異界」をも失う。彼らは日常からやってきて日常に復讐するようになる。「幽霊」の誕生である。言い方を変えれば、日常の中の異界、心の闇をこそ、人々は恐れるようになったのだ。宗教は最早無力となった。


結論として、私は声を大にして言いたい。
朝霧の巫女」が、宗教性を失った江戸末期の「稲生物怪録」をネタ本にするのは間違ってるっ!

*1:AIRは、想いを「受け継いで」いる時点で一種の負け要素も含んでいるのだが、マザコンっぽいから許してあげよう。