体育会系ジョークとオタクジョーク、その間にある深い溝

体育会系ジョークの一つの要素がバカ比べなのは間違いない。が、バカ比べが必ず体育会系ジョークとは限らない。オタクもバカ比べはする。スケベ比べもする。

体育会系のバカ比べ、スケベ比べのベースには、やっぱり身体的、生物的で感情に直接響くネタを取り出して誇張し、肥大化させようとする方向があるように思う。何しろ「体育会系」なのだから。同じバカでも、お笑いのバカと体育会系のバカはまるで違う。お笑いのバカは結構知的である。体育会系のバカは、知的さを断固として拒否する。身体性を100%素で出し、さらに10倍に誇張するのが体育会系だ。ネタにする情動も、できるだけ単純で原始的なものがよい。そしたらやっぱり、寝る、食う、ヤる、しかないではないか。話すときもできるだけあけすけで、小脳にビンビン響くのが良い。こうして身体性を極め、共有することで、自我とコミュニケーションを両立させていく。

反対に(と言うべきか否か)、オタクはひたすらバーチャリティを極めようとする。大体において実体より写像が好きだ。写像より虚像がよいし、虚像よりメタデータの方が優れている。データの世界はひたすらに畳み込まれてどんどんと複雑化していくから、ときおり広く通じる記号を取り出して「萌え」てみたりするが、次の瞬間には更なるデータを求めて彷徨を始める。その過程を共有するのがオタクコミュニケーションだ。やり方としては、やはり大脳を駆使しないと理解不能な、もってまわった言い回しが要求される。

コメントやブクマの中に、この二つを「両方やれる」と豪語する方々がいる。が、コミュニケーションは自己の確立と切り離せない。体育会系ジョークの裏には記号化への絶対拒否があり、オタクジョークの裏には身体性の忌避がある。この二つを両立させていたら、かなり深い自己矛盾を感じないのだろうか。ペルソナレベルのエミュレートをもって「両立」とするならば別に良いのだが、それなら彼らの「本体」はどっちなのだろう。それともこの二つを統合した、素晴らしくハイレベルで刺激的なコミュニケーションが行われているのだろうか。でもそれって、誰が理解できるの?

それはそれとして、エントリで紹介されてるW3C準拠なHTTPパンティ - Engadget 日本版が面白すぎ。