森山和道の「ヒトと機械の境界面」

iTOKYOには行きました.インタラクティブ作品は体験してなんぼなので,これだけまとめて体験できる機会は貴重.やはり,ゆくゆくはジョイポリス並みの常設展示が欲しいところ.
それを踏まえての感想としては,ルッキンググラスにしても,SUIにしても,水鈴にしても,アプリケーションはどうしてもピンと来ない部分が多かった.それよりは,技術が生々しく出ているものの方が,技術屋としての頭で楽しめる分,懐が深い印象.IVRC作品のゲーム的な部分も面白いけれど,しかし市販のゲームに比べて本当に面白いかと言われると,うーんどうだろう?
事後にhase氏や身内の話を聞きながら,ずっと理由を考えていたのだが,個人的には互いに関連する二つの点に集約される気がした.一つは,

  • 単純にアプリケーションの「アプリケーション度(現実社会に対するApply度)」が低い.これは,パネル討論の,以下の意見とも類似している.今までインタラクションというのは,ほぼアカデミック,もしくは前衛芸術的な位置づけであったから,この点については,これからどんどん洗練されていくことが期待できるだろう.

土佐信道氏は「現代アートがいつ頃からか、わくわくしなくなり、若い人たちも自分たちの時代のことしか語らなくなってきた。イマジネーションが減ってきている。でも逆にデザインの世界は非常に活気がある。なぜかというと経済と結びついているからだと思う。

ソニーCSLの暦本氏も会場からコメントした。作品を見て「すごい」と思うことがあるが、一方で「すごいけど欲しくないもの」もある。もっとも高い評価は「あ、これ欲しい」と思うモノ、「すごくて欲しいもの」なのではないか、それは持続性のある「ウケ」なのではないか、と語った。

もう一つは,

  • データ量が足りない.今の世の中は,圧倒的な情報量に対する抵抗運動で成り立っているような部分がある.アートにしろ,抽象的な意味でのゲーム性にしろ,警句にしろ,小説にしろ,世の中を一つの切り口で切ってみせることが重要ではあるが,しかし,その切り口にどれだけの重みを載せられるかが,その切り口の価値を決めるという点は見過ごされがちだ.想像だけではダメだ.本当のデータを載せなければいけない.


以前に,DHTMLデモとAJAXデモの決定的な差は,イマドキのAJAXデモはバックグラウンドに大量の本物のデータを抱えている点だ,と書いたが,もっと広く,インタラクションの世界においても同じ事が言えるのではないかなあ.