コミュニケートの「心労」

コミュニケートによる新たな発見や笑いよりも心労の方が大きい、また、あまりにも他のゴーストとかけ離れ、完成度の高い世界観を持っているのであれば、確かにそれは参加しない方がいい、という話。


それを支える技術はどこにもないのに、"AI"が"入力に対するレスポンスとして会話文を返せる"枠組みだけが提供されていた状況が、「建前とはいえ「自ら考える」ためのインターフェースを持ってしまって」いる「理想モデル」だ。しかし、この「理想」は早速

  • 技術的に理想: 入出力を持った(意味解析可能と期待される)系としてのAI
  • ヒキコモリ的理想: 中身をブラックボックス化したI/Fにより、他の干渉を受けない

の二つの意味に取られ始めている。だが、後者の「理想」は、果たして本当に実現されていたのか。様々なゴーストの投げてくるメッセージの応答文を書きながら『おめーら、乳ネタ出してりゃいいと思ってるだろ』 と思ったゴースト作者は、果たしていなかっただろうか。自分の吹き出しさえ守れば全て守れるということはない。一方向でも双方向でも、コミュニケートあるところ齟齬は必ず起きる。それを修正していく努力が本物のコミュニケートだろう。それを「荒らし」「心労」と言ってしまえば、まあそうかもしれないし、そう本能的に思えてしまうのであれば、触らないが吉だ(本能は信用した方がいいですね。さもないと体を壊します)。台本コミュニケートは不参加の自由をデフォルト不参加で認めるはずなので。