distributed entertainment

私の職業というのは多分、digital機器が繋がる世界で、分散環境をもう少し使いやすくしましょうみたいなカテゴリに含まれるのだと思うのだけど、たまにお金とラインを持っている人たちに「P2Pどうっすかー」みたいなことを聞いてみても、「ハッハー、君は面白いことを言うねー」みたいな反応が返ってくる。考えたこともない……というほどではきっとなくて、単に100億円レベルのビジネスモデルが思いつかないからである。まあそりゃそうだ。こっちもそんなの思いつかない。


話は変わって、私は未だに「伺か。」を「何か。」と呼んだり書いたりする。別に原理主義者というわけではなくて、単に「うかがか」とか言いにくいし、FEPに登録するのが面倒くさいし、何より美しくないからである。「何か。」という単語には、ある種の美しさがある。妥協点として丁度いい。
というのも、私が考える本来の原理に従えば、私にとって、「何か。」は、れっきとした「偽春菜」だからである。そこが最大のインパクトを持っているからだ。「伺か。」に至るまでに獲得された最大のアイデンティティ、その最大の発明は、"SERIKO"でも"SURFACE>SHELL/GHOST"でも、ましてや"SHIORI"でもない。そんなものは単なる実装上のチョイスに過ぎない。信じがたい量のエネルギーを注ぎ込んだ、大した仕事には違いないけれど。
偽春菜」は、「うにゅう」だ。
「役に立たない」ことを、コンテンツだけでなく、モデル(メディア)として表現したことが最大の功績だと思う。デスクトップエージェントは、直接的にはユーザのためのものではなくなった。偽春菜とうにゅうが会話を始めたとき、その実装はどうあれ、ソフトウェアの(観念的に……ユーザの主観で)I/Oはユーザを向かなくなった。彼らは彼らの世界に住むようになった。distributedな世界の誕生である。
ある社会・グループが分割されるとき、そこには幾つかの要因がある。例えば、相容れないルールの競合であるとか、ルール自体が喪失した場合とか、あるいはリソース不足であるとか。でも、「分割のための分割」というケースもある。主観的に言えば、人間は戦いとかコミュニケーションとかが好きだからだ。客観的に言えば、人間は、他の人間が戦いとかコミュニケーションとかを行った結果生まれる、ドラマが好きだからだ。
もちろん、そこでコミュニケーションが起きた瞬間、また一つの社会が生まれてしまうという矛盾は存在する。猫の地球儀で焔がそう言っている。それもまた一興だ。


distributed environmentにおいてコミュニケーションは重要な要素には違いない。今すぐ、手持ちのdigital機器をそういう風に応用できるとは思わないけれど、娯楽と暇つぶしに飢えている文明人にとって、携帯電話以外の、複雑でバーチャルなコミュニケーション手段はきっと魅力的だろう。


「うにゅう」が何であるか、ということについては、もう少し突っ込んだ考察もあるのだけど、こちらは本当にオリジナルゴースト制作の目処が立たなくなってから喋ろうかな、と。すでに十分立たなくなってるのだけど(笑)