「辺境警備」という未完の物語と、境界に立つ妖精としての隊長さんと、「大らかな大人」幻想のこと

古い漫画の話で申し訳ない。いつもならあっちに書く話だが、今日はちょっとこっちに書きたい気分。
私の小説的原風景の一つが「指輪物語」であるのと同様、漫画的原風景の一つは明らかに「辺境警備」である。見た目そのまんまだ(笑) ……でも中身は大幅に異なる。180度違うと言って良いと思う。指輪物語は、善悪二元論のバリエーションだが、辺境警備は日本的融和のバリエーションである。指輪物語で賛美されるのは、フロドが汚れを負いつつも果たした善への献身であるが、辺境警備で賛美されるのは、汚れを負い、節を曲げることで融和を実現した神官さんとカイルだ。
そして、常にそこにいたのが、狂言回しの隊長さんである。
(以下長文ネタバレ、ぐだぐだ)
辺境警備で描かれる隊長さんは、

  • おちゃらけ昼行灯。誰にでも絡む、不精で不摂生で下ネタ大好きなおじさん。都で女に失敗して左遷されてきた。
  • 昔は切れ者で鳴らした傭兵部隊の隊長であり、経験という暗黙知を言葉にすることができる男。

という、中村主水やカミソリ後藤のファンタジー版みたいなおっさんだ。ちなみに、隊長さんは最後の最後まで、本来の「実力」を見せることはない。神官さんやカイルの前では、彼の刀は最後まで抜かれなかった(サバイバルは何度かあったけど)。彼の人格は、あくまで過去に築いた人脈と、現在のコミュニケーション能力によってのみ描かれる。

この隊長さんに関して、私の中でずっと心に残っているフレーズがある。全てのオチが付いた後、エピローグの中でのことだ。神官さんの神秘的な育ての親(実は呪いによって1000年の時を生きる建国王その人である)『剣の賢者さま』と、隊長さんを評して、神官さんが心の中で呟く(手元に無いのでうろ覚え)。【追記】修正しました

「ああ私はまだ、隊長さんたちのように、色んなことを胸一つに収めておけるほど、大人ではないのだな」
「ああ… まだわたしは 賢者さまや隊長さんのように いろいろなことを胸ひとつにおさめられるほど 大人ではないのかもしれない――」

かつての自分は、隊長さんになりたかった。のだと思う。夢を諦め、都落ちを受け入れても、全てを胸一つに収めていられる大人になりたかった。そういうのが「立派な大人」だと思っていた。隊長さんは最後まで、血なまぐさい戦闘や都の泥臭さのことなど、のどかなドレングの村人達には全く感じさせない。どこでもおちゃらけて自分流でいるが、実はその世界のことを深く愛し、尊重してもいるのだ。隊長さんは、典型的な、「境界線上の人間」だった。境界線上にいて、村も、都も、魔物の世界も、神話の世界も、彼なりの流儀で接し、尊重していた描写が物語を通じて一貫して見られる。彼という神懸かりな狂言回しがいたからこそ、神官さんとカイルが通じ合うための、物語的下地が整えられた。
しかし、その一方で、辺境警備の外伝「星が生まれた谷」のラストにおいて、顔見知りの爺さんに『歳を取ったらどんな人間になりたいか』と問われた若かりし日の隊長さんはこうも言う(これは検索したから多分あってる)。愛する女性と決別し、赴任した先でのことだ。

俺は不良中年になりたいな
いつまでも悟ったりせずにじたばた生きたい
どんな痛みも苦しみも、喜び同様に覚えていたい
果てしなく続く天使のいない夜も 軽々と生きていきたい
もしも本当に そんな人間になれるのならね

多分それは、境界線上から愛することが独善につながるという、物語構成上の危険に対して、作者が施した自然なカウンターであったろうと思うし、隊長さんにそういう側面があることが、彼のキャラクターに深み(とは言え類型的ではあるのだが)を与えているのも確かだ。
しかし、これは本質的に境界線上では不可能な要求である。つまり、隊長さんは自己矛盾を孕んだキャラクターなのだ。説得性を持って境界線上にいるためには、じたばた生きる隊長さんが必要だけれど、境界線上ではじたばたできないのである。そもそも、じたばた生きたい、不良中年になりたいという台詞自体が、自分を悲しく客観した台詞である。この自己矛盾を両立させられるのは、それこそ天使ならざる妖精だけだろう。
辺境警備の中で、この矛盾が解かれているとは言えないと思う。隊長さんは最後まで分裂している。考えられるのは、隊長さんから見ればじたばた生きているつもりで、神官さんから見ればそれは「オトナ〜」なのだ、という解釈だが、それをそうと感じさせる構成にはなっていないし、読後感としてそこまで視点を分けているようにも感じなかった。残る解釈は、隊長さんにとって、傷を抱えて生き続ける自分すら、愛すべき(外部の)世界の一つである、という考え方だ。実際、物語中でも「運がなかったのさ」、あるいは、「でももう触れるな、ロレアン。それが薔薇だよ」など、最後には自分を突き放した発言で締めくくってしまう。悟らない代わりに、全てをペンディングしているのだ。
結局、辺境警備は、(後書きによれば作者が漫画を描き出す最初のきっかけであった)夢に届かなかった人達を真に救うところまでは至っていないのだろう。その問題を、対立する人々の融和という別の話にすり替えてしまっているのだろう。その間に何かがあると感じつつも、物語に載せきれなかったのだろう。グラン・ローヴァ物語が書かれたのも、到達しきれなかった部分に対して別のアプローチ(誰だって、生きることを許されている)を行いたかったからなのだろう。

でも私は、それを『辺境警備』の世界で見たかった。それが許された時代の間に。

なぜそういうことを考えたかというと、「全てを胸一つに収める大人」というロールモデルは(少なくとも現時点において)完全に崩壊したな、と、二つの理由から思うからだ。

  • 世界がスピードを求めてフラット化してしまったため、「中間」に立つ人物がいなくなってしまった。欲しさえすれば、村の兵隊さんたちでも都の情報を知ることができる。隊長さんが胸一つに収めても意味がなく、むしろ弊害にしかならない。誰もが自分の言いたいことを言う「子供」ばかりになってしまった。
  • そうやって、誰もが自分の思っていたことを言って・やってみた結果、そもそも公私問わず「全てを胸一つに収める大人」など、現実にはほとんどいなかったことがはっきりしてしまった。あらゆる角度で眺めてみれば、人一人の判断など殆ど意味を成していなかった。

代わって今求められているのは、少数精鋭グループの「リーダー」である。情報に関しては最早規制はしない。誰もができるだけ情報を発信し、情報を得るべきである。その代わり、目的と意志とサポートが重要となる。グループに対し目的を与え、行動を統率し、生活を守るリーダーこそが、現代の「大人」像となりつつある。昼行灯では、たちまちチームは崩壊してしまう。
辺境警備では遠い世界として描かれていた、傭兵部隊の隊長「サウル・カダフ」が、これからの理想像になっていく。現代の辺境警備においては、田舎に飛ばされてきた隊長さんは、この村を守るためにはどうすればよいか考え、村人全員と討論して意識を統一し、幾つかの明快な目標を掲げ、人々の生活に気を配っていくべきだ。また、辺境警備やグラン・ローヴァの世界では、ただ駆逐されていくしかなかった古い世界も、現代ならば積極的にメディアを使って保護を訴え、一定の世論を獲得していくことも不可能ではないだろう。

それが間違いであるとは言わない。隊長さん一人の胸三寸ではなく、村人全員の力で辺境が守れるなら、それは正しい在り方だ。古い世界が新しい世界と共存する道を模索できるならば、グラン・ローヴァ物語の終わりはもっと幸せなものだったかもしれない。


でも、それでも、自分が信じた世界が崩れていくのはとても悲しい。私にとっては、一つ一つの世界やストーリーは、もっとくっきりとした境界を持ち、手に取れる形であって、理解可能なものであって欲しかった。誰も彼もがじたばたしていて、どこからが古い世界なのか分からないのは、味気ない。境界に立つ喜びが消えていくのは寂しい。やはりどこかには「辺境」が存在していて欲しいなぁと思ってしまう。甘えかもしれないけれど。

P.S. ネットに分解される「大人」像と言うことに関して、自分のチラシの裏を発見したので晒しておく。